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この小説は大和郡山市中途失聴・難聴者協会のホームページ掲示板上で 展開された閲覧者参加型連続ドラマを基に脚色・加筆したもので、 団体名、個人名など全てフィクションです。

登場人物紹介

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「空を、泳ぐ!」

編集・金魚





* 1 *


未知の世界への扉は、案外身近にあるのかもしれない。運命のその日、小山リオは勇気を振り絞って 要約筆記サークルの扉を開けた。地元の福祉会館で要約筆記ボランティアの定例会を見学するためだったが、 生まれてからずっとこの町に住んでいるのに福祉会館に足を踏み入れるのも初めてなら、会館そのものの 存在も知らなかった。

福祉会館の3階、階段を上がってすぐ目の前にあるその部屋の扉には、思わず微笑んでしまうくらい 可愛らしいイラスト入りで『要約筆記サークル・青い空』の札が掛かっていた。一つ深呼吸した後、 古びた木製のトビラを遠慮がちにノックする。内側から返事が返るのを待って、静かに扉をを開いた。そこには 黒メガネに黒服の不気味な集団がいて、その視線が一斉にリオに集中する。 ちょっと・・・いや、かなり不気味だ。

(早まったかも。)

軽く動揺して入り口に立ち尽くすリオに

「小山さんですね。ようこそ。」

サークル代表の麻耶(まや)が笑顔で手招きしてくれた。ぺこりと頭を下げて 室内に入ろうとした時、低いうめき声が聞こえてきた。

「ううう・・・漢字が出てこな〜い・・・。」

部屋の隅に陣取って何か一所懸命書いている黒メガネの三人組がいる。

「はい、皆、注目〜。」

麻耶はパンパンと手を叩いて全員の視線を集めたかと思うと、 リオに自己紹介を促し、ほとんど無理やりにマイクを手渡した。

(えっ、こんな小さな部屋なのに、マイクでしゃべるの?)

戸惑いながら、恐る恐るしゃべってみる。

「小山リオと言います。只今、就職浪人中なんです。」

傍らの麻耶がそっとリオの背後の壁を指差す。振り向いたリオはそこに自分の 自己紹介の言葉が大きなスクリーンの上に映し出されていくのを見た。 かっちりと読みやすい楷書で書かれた大きな文字だ。 黒メガネの三人組が書いていたのはこれだったのか、とその時初めて解った。

要約筆記が聞こえない人に文字表記で情報を伝えるコミニュケーション手段である事は知っていた。 リオの大学にも聴覚に障害のある学生がいて、それらの学生と同じ講義をとった事がなかったので リオ自身は直接見た事はないが、聞こえない学生のために講義の内容を書き記すボランティアの人が来ていると 友達から話は聞いていたのだ。だからリオが知っている要約筆記とは、そういった個人的なもので、 こんなふうに機械やスクリーンを使って文字を大きく映し出すようなものではなかった。

「麻耶(まや)です。今日は見学者が二人も来られて嬉しいですね。」

ここではマイクを使って発言し、まず名前を言うのが決まりであるらしい。 麻耶の発言を受けて、スクリーンにはすぐに

マヤ/見学者が二人も。嬉しい。


と映し出される。芝居の台本のように、誰が言った言葉なのかが解るような書き方になっていた。 リオは次々に文字が映し出されては流れていくスクリーンを横目で見ながら、もう1人いるという 見学者が気になり、失礼にならない程度に室内を見回した。中央奥のテーブル、一際 スクリーンが見やすいであろう位置に座る1人の女性と目が合った。穏やかな会釈(えしゃく)に 誘われるようにして、その人の隣に座る。

「私も今日、初めてここに来たんですよ。八尾まりこです。よろしく。」

「こちらこそ。よろしくお願いします。ああ、よかった。私、緊張しちゃって・・・。」

まりこはリオの母と同じか少し若いくらいの年齢に見えた。普段その年代の人と話す事など ほとんどないリオだったが、自分と同じ初心者がいる事に安心したせいか、ごく自然に 会話することができた。もっと話しかけようとしたその時、 まりこの右側に座っていた人がサラサラとリオの発言を紙に書いて見せているのに言葉を失った。

(えっ?この人、聞こえないの?だって、普通に喋ってるのに・・・。)




* 2 *


「今前でやっているのがOHP要約筆記です。」

後方の席に移ったリオとまりこに麻耶が説明する。まりこの隣ではサークルのメンバーが 麻耶の言葉を次々と紙に書き示し、まりこに手渡していく。

「OHPというのはオーバーヘッドプロジェクターの頭文字で、あの機械のことです。 ステージと呼ばれるガラス板の上にロール・・・サランラップみたいにロール状になった フィルムシートを乗せて、その上に聞こえた言葉を要約して書いていきます。 それがスクリーンに大きく映し出されているわけです。」

「OHPというと、学校で見たことがあります。こんなふうに使われるとは知りませんでした。 考えた人、すごいですね。」

リオは持ち前の好奇心を発揮して前方のスクリーンを見た。

「一番初めにOHPを使って情報保障・・・え〜っと、私達、この言葉よく使うんですけど、わかります?」

「わたしのような、聞こえにくい人にも情報を伝える、保障するという意味ですね?」

まさに今、紙に書かれた文字で情報を得ていたまりこが発言すると、麻耶が嬉しそうに笑って頷いた。

「はい、そうです。その、情報保障にOHPを使う事を初めて思いついたのが、ご自身も聞こえにくかった 学校の先生だったと言われています。」

リオは感心し、納得した。実は教員免許を持っている彼女だが、もし自分が教育現場にいて 毎日OHPを見ていたとしても、それを聞こえない人のために使うこと、使えるかもしれないなどと 考えることなどなかったと思う。それ以前に、聞こえない人の事など考えもしなかったのではないだろうか。

「それから、今八尾さんの隣で書いてくれているのがノートテイクと言われる方法です。 個人的な内容の時などはこちらの方法で情報保障します。」

まりこは読み終わってから麻耶の顔を見上げた。

「目が疲れないのはこちらの方ですが、これだと喋っている人の表情だとか周りの様子とかがわかりませんね。」

八尾の言葉にまた麻耶が大きく頷く。八尾さんは母よりずっと頭の回転が早そうだ、とリオはこっそり考える。 その上、文字を読みなれているらしくノートテイクに素早く目を通して内容を掴むのも早い。かなりの 読書家ではないだろうか。

「そうなんです。一長一短、いろいろあるのが現実です。」

「あの、前の人たち、皆黒いサングラスをしてますよね。黒い服の人も多いし。あれ、なぜなんですか? 入ってきた時、ちょっと怖かったんですけど・・・。」

リオの正直な感想に麻耶もまりこも笑った。ノートテイクをしていた人も口元を抑えて笑いを隠している。

「ああ、ごめんなさいね。初めての人はびっくりしますよね。けして怪しい集団ではないんですよ。 あれはね、OHPのランプの光がすごく眩しいからなんです。目を守るために偏光グラス・・・え〜っと、 釣りや屋外のスポーツなんかで使用する、光を反射するメガネをかけているんですよ。」

「ああ、そうなんですか。じゃあ黒い服も光を吸収するため?」

「いえいえ。」

麻耶が手を振って、おかしそうに笑った。

「要約筆記者はあくまで黒子というか、動きやすく目立たない服装で現場に行くようにしているんです。 今日のような例会では別に何を着て来てもいいんですけど、どうしても黒っぽい服が多くなっちゃうんですよね。 だから小山さんのような若い人が、華やかな服装で例会に来てくださるのは大歓迎ですよ。」

茶目っ気たっぷりにウィンクされる。見かけは怖そうだが、麻耶はなかなか楽しい人らしい。


「あの・・・」

まりこがそっと右手を上げて発言を求めた。麻耶が「どうぞ」と手で合図する。

「このサークルは要約筆記のサークルだということですが、みんな聞こえる人ばかりなんでしょうか。 私のような、聞こえにくい人はおられるんですか?」

「いらっしゃいますよ。今日も三人、参加しておられます。八尾さんはサークルのこと、 どうやってお知りになったんですか?」

「娘が・・・小学生なんですど、近所のスーパーで、このサークルのポスターを見て教えてくれたんです。 一度ここに行ってみればって・・・。」

「ああ、これですね。あそこのスーパーの店長さんは私達の活動を理解してくださって、 これを大きく引き伸ばして掲示してくれたんです。だから目に付きやすかったんでしょうね。よかった。」

そういって麻耶が取り出したのはA4サイズのカラーコピーだった。一番上に『聞こえない事で悩んでいませんか』 と一際大きな赤い文字が躍っている。

「うちのサークルは県内でも若い・・・平均年齢ではなくて、創立年が、ですよ。歴史の浅いサークルなんです。 設立したのも市内の中途失聴者・・・えっと、それまで聞こえていたのに聞こえなくなった人の事を こう呼んでいるんですけど、その方たちが市に強く働きかけたからなんです。ですからサークルには 要約筆記者と共に、中途失聴者も初めから会員として在籍しています。」

「ポスターには、聞こえない人同士で情報を交換したり気兼ねなくお喋りを楽しめる場、 と書かれてありましたけど?」

「はい。今前でやっているのは要約筆記の学習ですが、例会の後半はメンバーが持ち寄った お菓子とお茶をいただきながら、座談会のような形になります。」

「あ、それで。いろんなカップがずら〜っと並んでいるんですね。」

リオは部屋の隅に置かれた机の上に、色とりどりのマグカップが並んでいるのを指差した。

「そうです。小山さん、目ざといですね。あのカップ、形が同じだけど柄が全く違う物でしょ? サークルで先生を招いて、なんていうのかな、絵付け?みんなでシールのような物を貼って、 それを焼き付けてマイカップを作ったんです。サークルにはそういうお楽しみ企画もありますよ。」

ノートテイクの文字を追っていたまりこが再び質問する。

「例会の前半、学習の間、聞こえない人は何をしているんですか?」

「前半の学習の時はスクリーンを見てもらっています。要約筆記者は聞こえますから、 耳と文字の両方で情報を判断することができますよね。少々書かれた文章がおかしくても内容は解るんです。 でも聞こえない人に読んでもらって解ってもらえるかどうか。それはやはり当事者にチェックしてもらうのが一番です。 内容だけでなく、見やすい画面になっているかもチェックしてもらって、意見を出してもらっています。 時には厳しい意見も出ますよ。」

「それはつまり、要約筆記を利用する当事者が、自分達の見やすい情報保障をしてもらえるように 筆記者を育てている、ということでしょうか。」

麻耶が大きく頷く。

「その通りです。」




* 3 *


「小山さんはどうしてこのサークルに?」

聞きたい事は全部聞いてしまったのか、まりこがリオに話しかけてきた。

「あ、私は市の広報を見て。要約筆記奉仕員養成講座のお知らせが載っていました。でも実際どんなことを するのか解らなかったから、見学できるか問い合わせてみたんです。」

その時、電話対応してくれたのが目の前にいる麻耶だった。電話口で麻耶は「早口でごめんなさい。」と 言っていたのを思い出す。しかし、今リオやまりこと話をしている彼女は、どちらかというとゆっくり、 そして一言一言をはっきりと話している。それが聞こえない人と会話する時のルールかもしれない。

「お若いのにボランティアに興味をもたれるなんて、感心ですね。」

まりこが微笑む。リオは慌てて手を降った。

「いえ、そんな。そんな立派な理由じゃなんいんです。就職がなかなか決まらなくて。 家にも居づらいし、時間はたっぷりあるし。ちょっとでも就職に役に立つかなと、そんな下心もあったんですよ。」

「小山さんは正直な方ですね。」

今度は麻耶が笑う。

「就職に役立つかどうかは解りませんが、見学されて、どうでしたか?」

「そうですね。知らない事がいっぱいで、とても勉強になりました。中途失聴者なんて言葉も知らなかったし、 それに・・・あの、失礼な言い方かもしれませんが、聞こえない人は喋れないと思っていたんです。すみません。」

「謝ることはありませんよ。一般的に、聞こえない人は話せないけど手話ができると思われていますからね。 だけど聞こえない人でも、手話だけでコミ・・・え〜っと、コミニュケーションをとれる人って、 実はほんのわずかなんですよ。」

「えっ、そうなんですか?」

「ええ、そうなんです。例えば小山さんが聞こえなくなったとしますよね。その時点ですぐに手話で会話できますか?」

「あ、そうか!」

「もし小山さんが以前から手話に興味を持っていて、手話で不自由なく会話ができたとしても、 家族やお友達が手話を使ってくれないとコミができないんです。」

「そうか。そうですよね。私は喋れる。でも相手の言葉が聞こえない。私が手話を読み取れても、 相手が手話を使ってくれなければ役にたたないのか・・・。」

「日常から手話で会話されているろうの方と違って、中途失聴者は、聞こえない事は見た目には解りません。 話せるので聞こえない事を理解してもらいにくいんです。」

「そうか。そうですよねえ。うーん。今日一日で、ものすごくいっぱい勉強した気分です。」

腕組みまでしてしきりに感心するリオの横で、まりこがしみじみと呟く。

「私もね、自分がこうなるまで、聞こえない人の事など関心も持ちませんでしたよ。ましてボランティアで なにかしようなんて考えた事もありませんでした。小山さんのような若い方が少しでも興味を持ってくださるのは、 とても嬉しいし心強いです。」

「八尾さん・・・。」

「小山さん、ぜひ講座を受講してください。私達は1人でも多くの方に『中途失聴』を知ってほしいと思っています。 そして聞こえなくなって寂しい思いをしておられる方にも、要約筆記という物がある事を伝えたいんです。 残念ながら、手話と違って、まだまだ世間一般には知られていませんから。」

麻耶に言われるまでもなく、リオの心は決まっていた。筆記者になるかどうかは就職問題もあるので又別として、 中途失聴や要約筆記をもっと知りたいという思いがこみ上げてきている。

「あの、その講座というのは、わたしは参加できないのでしょうか。私も、自分が置かれた状況や要約筆記の事を、 もっと勉強したいのですが・・・。」

「そうですね。受講生としての参加はできないかと思いますが、サークルの中途失聴・難聴者会員としてなら、 講座に参加してもらえます。えっと、それにはサークルに入会していただかないといけないんですけど、よろしいですか?」

「はい。ここへ来て、麻耶さんや小山さんにお会いして、死ぬ前に、とりあえずできる事は全部やってみようかなと、 そんなふうに思うようになりました。」

まりこのその言葉に麻耶はちょっと複雑な顔をした。リオはそんな麻耶の表情には全く気づかなかった。 それよりも、母と変わらない年齢だというのに、頭がよくて、前向きで、客観的に自分を見つめる事ができる、 なんて強い人だろう、と感心するばかりだった。

・・・その時のリオにはまだ、何も解っていなかったのだ。




* 4 *


「とにかく、まずはやってみる事。」それがリオのモットーだ。大好きなライトノベルの主人公の 考え方でもある。

やらないで後悔するよりも、行動を起こせ。それで経験した事は、たとえ失敗で あっても自分の財産になる。

講座を受ける決心をしたリオは、はりきって受講の申し込みをした。

そして、いよいよ始まった講座の初日。ドキドキする思いで足を運んだのは、 このまえ見学に行ったのと同じ、福祉会館の3階だった。 「要約筆記奉仕員養成講座会場」と達筆な文字が貼りだされている。

開け放した扉の前で深呼吸。よしっ、と自分に気合を入れた。

「こんにちは。」

入り口すぐに受付のテーブルが置かれていた。名簿と名札が用意されている。 リオは自分の名前のところにチェックを入れ、名札と紙袋を受け取った。 中には例のサランラップ・・・ロールといってたっけ?・・・とペン、それにテキストと 手袋などが入っていた。

緊張の面持ちで空いている席に座る。やるからには 全力投球したいリオは、一番前に席をとった。

受講生は6人ほどで、リオ以外はほととんど中年のおばさんだった。 定年退職したくらいの年齢のおじさんが1人、なんだか心細そうにその中に混じっている。 みんなちょっと緊張した面持ちで座っていた。

部屋の後ろに目をやると、まりこがリオを見つけてニコッと笑ってあいさつしてくれた。 マリオも笑顔で頭を下げる。

いよいよ講座が始まった。




* 5 *


季節は秋。
色づく紅葉に更に夕日が鮮やかさを増した空をまりこは空を見上げた。 要約筆記奉仕員養成講座の帰り道である。

まりこは45歳。聞こえなくなったのは、つい半年前だ。それまで保険の外交員として 第一線でバリバリ働いていたまりこは、まさか自分の聞こえが失われる日がくることなど 想像もしたことがなかった。

ずいぶん前から耳鳴りはあったが、仕事の疲れが溜まっているだけだろう、 ぐっすり眠ればなくなるだろうと仕事と家事を優先させ、後回しにしていた。

もしも。もしもあの時に今のような知識があって、一刻でも早く病院に行っていたら・・・。 後悔しないと言えば嘘になる。

リオも言っていたように、まりこ自身、中途失聴なんて言葉も聞いたことがなかった。 突発性難聴などという言葉も、へえ、そんなのがあるんだ、くらいにしか意識がなかった。 聞こえなくなるのだと実感した時は、あまりのショックと絶望に涙も出なかった。

今でも正直言えば不安でたまらない。でも、とまりこは思う。

この講座に参加するために要約筆記サークルに入り、いろいろな事情の人と知り合った。 自分だけじゃない。もっと辛い思いをしてきた人が大勢いる。

誰にもわかってもらえないと思っていた悩みや不安を、「私もそうだったよ。」と 言って貰えること、聞いてもらうことで少し肩の力を抜くこともできた。

このサークル「青い空」では聞こえない事を隠す必要もない。聞こえていた時と 同じようにとはいかないまでも、疎外感を感じることなく会話を楽しむ事もできる。 そしてまりこは、いつしか久しぶりに声をあげて笑っている自分に気がついた。

「もう一度・・・。」

聞こえが元通りになる事はないだろう。
でも、それだけのことで人生を諦めてしまうことはない。

(リオちゃんも頑張っている。)

講座の中で、断トツに若いリオは目立つ。両親と同年代かそれ以上の人達の中で、 彼女は少しも物怖じせずに、今時の若者は・・・と言われるような態度もない。 誰からも好かれるキャラクターで、今ではアイドルのような存在だ。

時々、経験不足を思わせるズッコケた言動もするが、誰よりも一生懸命に 取り組んでいるのが微笑ましい。

(リオちゃんの元気をちょっぴりもらって、私も自分にできることをしよう。)

「さて。まずは夕飯。何にしようかな。」

まりこは空に向かってつぶやいた。




* 6 *


「ママ、おはよう〜!」

朝食の用意をしていたまりこの元に娘の弥生(やよい)がにょきっと顔を出す。

「あれ〜?お父さんはまだ起きてないの?」

ぐるりと辺りを見渡し不思議そうな顔をする。

まりこが失聴してから、まりこの家では普段、廊下に電気をつけないようにしている。 誰かが部屋に入ってくる時にスイッチを入れ、、まりこが気づくように工夫したのだ。 このアイディアを出してくれたのは中学2年になるまりこの息子だった。

朝、電気をつけるのは弥生か父親で、お兄ちゃんはいつもギリギリまで寝ている。 今朝はすでに電気がついていたので、てっきり父が起きているのだと思ったらしい。 娘の声がはっきり聞こえるわけではないが、それくらいは解る。

「おはよう。今日はママがつけたのよ。」

弥生が少し驚いたような顔をする。それを見たまりこは、小学4年生になる娘が 愛しくてたまらなくなった。

聞こえなくなってから、まりこは自分でも気持ちがピリピリしているのを感じていた。 電気スイッチの合図は、絶対に守って欲しいと強く家族に求めいてた事だったのだ。

「ママ〜、昨日いい事あったの?」

たぶん、そんな事を言っているのだろう。不思議そうに自分の顔を覗き込んでくる。

「そうよ。弥生ちゃんのおかげよ。ありがとう!」

首を傾げる娘の前に朝食を用意してやりながら、まりこは心から思った。

(私には私を心配してくれる家族がいる。)

「お休みの時にゆっくりと話そうね。」

まりこの言葉に、弥生が嬉しそうに笑った。 こんな娘の顔を見るのも久しぶりのような気がする。

まりこがそう思ったように、弥生にとっても母の笑顔は久しぶりだった。 忘れかけていた母の笑顔。それも特上の笑顔である。弥生はとても嬉しくなった。

(でも、ありがとってなんだろ?)

楽しみな気がかりを残して元気に学校に行った弥生と、 続いて起きてきた夫と息子を送り出し、まりこはホッと一息ついた。自分のために コーヒーを淹れ、新聞を広げる。テレビ欄に手話講座があるのを見て、思い出した。

初めてサークルを見学に行った時の事だ。その日参加していた三人の中途失聴者は 声も出していたようだが、手話も交えて会話していたように思う。それが正式な手話なのか 単なる身振り手振りなのかは、まりこには解らない。でも、コミュニケーションには かなり役立つような気がする。

今度、聞いてみよう。それに、生活の中での工夫もきいてみたい。 電気スイッチの他にも何かいいアイディアがあったら、ぜひ教えてもらおう。

昨日会ったばかりなのに、もう次に会うのが楽しみになっている。

こんなふうに楽しみを見出せる日が来るとは・・・。聞こえなくなる不安と焦り、 苛立ちと孤独感ばかりの毎日だった。もちろん、今もそれは変わらない。 それでも遠い遠いところに小さな希望の光を見たような気がしている。

(受講生のリオちゃんは、楽しいだけじゃないみたいだけれど。)




* 7 *


全10回の講座も、今日で5回目。折り返し地点だ。 今日は、初めてみんなの前でスクリーンに文字を出す実習の日だった。

「要約筆記は楷書で」というのが鉄則なのだが、リオは"いまどき"の文字しか書けない。 更に言えば、そもそもあまり文字を書いた事がなかった。メールもレポートも機械打ち に慣れており、年賀状だってパソコンで作る。講座が始まって、意識して楷書を 書くようにはしているが、焦るとどうしても丸まった可愛らしい字になってしまうのだ。

(うわあ、どうしよう・・・こんな字をスクリーンに出すなんて・・・。)

例会を見学した時と違って、やっぱり麻耶代表他、先輩方は怖そうに見える。 そんな不安の中、ついにリオの順番が回ってきた。

要約筆記サークルの先輩や難聴者の見守る中、リオは偏光グラスをつけてOHPの前に座った。

「あ、小山さん。それ、ノートテイク用のペンよ。」

「あっ、すすす、すみませんっっっ。」

緊張のあまり、ペンを間違えて持ってきてしまった。紙に書くノートテイクは水性ペン、 ロールに書く時は油性のペンを使うのだ。

「手袋も嵌めてね。」

(うわあああああ〜っっ。)

緊張して掌に汗をかいたので外したままだった。どっと汗が湧き出る。

「リラックス、リラックス。」

今日の講師を担当している麻耶代表が声を掛けてくれるが、 それがなかなか難しい。

実習内容は、先輩と組んで首相の就任会見のテープを 聞きながら要約するというものだった。

テレビはクイズ番組と好きなキムタクの出ているドラマ、 ニュースと言えば、時々スポーツを見る程度のリオである。

会見では、聞いた事もない知らない言葉がこれでもかというほど出てくる。 それだけでパニックになり、殆ど文字など書けない状況に逃げ出したくなった。 3分という時間が、これほど長く感じられたことはない。

話はどんどん進むのに、ロールには1行しか書かれていない。 どうしよう、と思うほどにペンが動かない。

その時、右となりに座っていた先輩がメモを見せてくれた。

「大丈夫!拾える言葉を拾って」

「難聴者があなたの画面を見てるよ」

リオは、別の意味で泣きそうになった。実習と言えども、自分の書いた文字を 読んで情報を得てくれている人がいる。そう考えると逃げ出したいなどとて思った自分が 恥ずかしくなった。

その後は必死でペンを走らせた。できるだけの事はやらないと・・・。

「連立政権、脱官僚依存、国家戦略室・・・」

相変わらずさっぱり分からない単語ばかりが続いたが、 一生懸命聞いて拾って、一生懸命繋げた。

「はい、そこまで。」

3分の実習が終わった時にはほとんど自失状態だった。しかし、そこで リオの受難が終わったわけではなくい。これから今書いた文章を、 皆の前でもう一度写し出して検討するのだ。

「このスクリーン見ても内容はさっぱり分からないねえ」

誰かのそんな苦笑が聞こえて、リオは泣きそうになった。

(それはその通りなんですけど・・・。でも私、まだ受講生なんですよ〜。)

そんなリオを席に戻らせてから、麻耶が受講生全員に語りかける。

「前で書くと緊張するでしょう?話も難しかったですね。知らない単語とか知識のない 話は、聞き取りにくいので書きにくいんです。だから事前準備、事前学習が 必要になります。この事はまた後で習います。今の時点では、知らない話は書きにくい、と 体感してもらえればいいんでよ。」

そして、リオを見てにっこり笑った。

「でも小山さん、前に比べてずいぶん楷書で書けるようになっていますよ。進歩ですね。」

リオは感動した。せめて自分にできることをしよう。 そう思って楷書で書いた努力を、麻耶はちゃんと認めてくれたのだ。

麻耶の言葉に、 会場の難聴者からも大きな拍手が贈られた。

(あんなメチャクチャな内容だったのに・・・。)

またもや涙ぐみそうになる。

こうして、リオは要約筆記の虜となり、 6回、7回…と講座の回を重ねていくのであった。




* 8 *


「要約筆記奉仕員養成講座」という、なんとも角ばった文字ばかりが並ぶ名称の、11回もあるこの講座を 無遅刻無欠席で修了したリオは、当初の予定通り市の要約筆記サークル「青い空」に入会した。

「お疲れさま。よく頑張ったね。」

「入会ありがとう。期待してるよ。これからも頑張ってね。」

講座中何かとお世話になり、仲良くなったメンバーの要約筆記者や難聴者から激励の言葉をもらい、 頑張るぞ〜っと意気込んではみたものの、講座を修了したばかりのヒヨッコであることには変わりはない。 すぐに現場の第一線でバリバリ活動するというわけではなく、まずサークルで実践にむけた勉強と、 難聴者との交流を通じて、聞こえないということがどんなことなのかを学んでいった。

半年もたつと先輩の補助・見習いとして現場に出向くことも増えてきたが、緊張して何もできないことも多く、 かえって邪魔をしてしまったのではないかと毎回のように落ち込んでしまう。 それでも「みんな同じ経験してきたから。」と、いつも励ましてくれる先輩や難聴者さんの声に支えられて、 なんとか続いている。もちろん励まされているばかりではない。時には、 にっこり笑顔を浮かべた麻耶代表から、それはもうキッパリ、ザックリと駄目出し されることもあるのだが、そうやって注意される内容は自分でも納得できる事ばかりだ。

(でも一つ一つクリアしていけば、上手になるってことだよね。)

常に前向きで明るいリオは、「青い空」にはなくてはならないムードメイカー的存在になっていた。

そんなある日。

「リオちゃん、先生の資格持ってるって言ってたよね。」

お茶の当番で一緒になった八尾まりこが話しかけてきた。

「小学校ですけどね。なにか?」

まりこだけでなく、難聴者との会話は講座で習った通り、基本に忠実に、口の動きを読み取れるように、 ゆっくり、そしてはっきり話す。 そこに簡単な手話も交える。サークルの筆記者や難聴者は、ろう者のように 手話を自在に操れるわけではないが、簡単な単語を示す手話は日常的に使っている。特にまりこは 中途失聴者のための手話講座も受講しているようで、習った手話をリオにも教えてくれる。 込み入った話になると筆記になるが、これくらいならお互いの意思の疎通はできるのだ。

「あのね、うちの娘の勉強、見てもらえないかと思って。」

このまりこの一言が、その後のリオの生活を大きく変えることになろうとは、 リオも、まりこも、「青い空」のメンバーも、誰一人想像してはいなかった。




* 9 *


まりこの娘である弥生は、母親に似てふっくらした丸い頬が愛らしい女の子だ。 南向きの明るいリビングルーム。小学4年生になる彼女は、 やや緊張した面持ちながら好奇心一杯のキラキラした瞳で リオを見ている。

とにかくまず会ってみて、本人の意思を確かめてから。 家庭教師を引き受けるかどうかはそれから決める事にして、リオは誘われるままに まりこの家にやってきた。 今、紅茶とお菓子を運んできたまりこが部屋を出ていったところである。 それを待ち構えていたように弥生が身を乗り出す。

「先生、要約筆記って難しいんでしょう?」

そんな質問がくるとは思っていなかったリオは少し驚いた。そういえば近くのスーパーで 要約筆記サークルのポスターを見て、まりこに「青い空」に行くようにすすめたのは 娘の弥生だったな、と初めてまりこに会った日のことを思い出す。

「難しいよ〜。私なんか、いっつも落ち込んでばっかり。っていうか、先生はよそうよ。」

「え〜、でも、それじゃ、なんて呼べばいいのかな。」

「リオでいいよ。ママもそう呼んでる。」

「リオちゃん? リカちゃんみたいで可愛いっ!」

「あはは。リカちゃん人形?あんなにスタイルよくないけどね。 私はなんて呼べばいい?弥生ちゃんでいいかな?」

「やっちゃん。友だちはみんなそう呼んでる。」

「そうか。よし。じゃ、やっちゃん。私とも友だちになろう。」

「えっ、先生なのに?」

「先生だと友だちになれないの?」

「そんなことない!リオちゃんみたいに綺麗でオトナの友だちができるなんて嬉しい!」

「・・・や、綺麗かどうかは・・・」

口ごもるリオに弥生が間髪を入れずに返す。

「服が。」

「おいっ。」

まるで吉本のコントのようなやり取りに、二人で声を出して笑った。 リオは弥生の楽しそうな様子にホッとする。

まりこから弥生の家庭教師の話を持ちかけられた時、少し迷った。 学生時代、プリント学習がメインの学習塾でアルバイトをしたことはある。 そこでは採点がほとんどで、一対一で長時間の指導をしたことは無かった。 まりこが望む家庭教師というものが、いわゆる「お受験対策」なのだとしたら 自分が適任だとは思えなかったのだ。

迷うリオに、まりこは言った。

「そうじゃないの。本当のことを言うと、勉強より娘の話し相手になってほしいのよ。」

失聴してから、まりこは弥生の学級懇談会等に要約筆記者を同行するようになった。 娘のために大事な話を聞き逃したくないと思っての派遣申請だったが、 母親が聞こえないということを、もしかしたら友だちに知られたくなかったのではないか。 自分に気を遣うあまり胸の中にいろんな気持ちを溜め込んでいるのではないか。 相談したい事があっても自分には言えないのではないか。 まりこは、そう考えて悩んでいたらしい。 だが今リオの目の前で無邪気にお菓子を頬張っている弥生からは、 とてもそんな様子は見受けられない。

「ねえリオちゃん、要約筆記ってわたしもできる?」

「そうだねえ。用件を書くのはできると思うよ。でも他の人が喋っていることを、 うまくまとめて読む人にわかるように書くというのは、とても難しいのよ。 いろんな事を知ってなきゃいけないし、漢字も書けなきゃいけないし。」

「それじゃ、子どもには無理?」

「いっぱい勉強して、いっぱい本を読んで、頑張ればなんとかなるかもしれないけど。 でも焦る必要はないよ。やっちゃんは要約筆記がしたいの?」

「うん。ママが笑ってくれるようになったの、要約筆記のおかげだもん。だからわたしも、 ぜったい要約筆記者になる。」

リオは胸がいっぱいになった。

「そっか。じゃあ、立派な要約筆記者になるために。ほんのちょっとだけ先輩の私からアドバイス。」

「うんうん。」

「できるだけ多くの事に興味を持って、勉強でも遊びでも、やれる事はなんでも経験して、 ママにいっぱい、やっちゃんの笑顔を見せてあげること!」


その日、リオは弥生の家庭教師に就任し、ついでに晩御飯までご馳走になった。 ここでまりこの手料理を食べたことが リオとまりこの生活に変化をもたらす兆しであったとは、この時まだ知る由もなかった。




* 10 *


リオが弥生の家庭教師兼相談相手として、まりこの家に通うようになってから 数週間がたった、ある日の例会。

その日、メンバー全員がどことなくソワソワしていた。というのも今日は学習会の後、 福祉会館を飛び出して外でお茶会を開くことになっていたからだ。

まりこもリオもまだ会ったことはないのだが、「青い空」の創設時のメンバーで 初代の代表、リオにとっては大先輩にあたる人が全員を自宅に招いてくれたのだ。

「遠山さんっていってね、この近くにあった遠山医院の奥さんなの。先生が 二年前に亡くなられて、その後医院も閉めることになって、いろいろ手続きやら 整理やらで大変だったのよ。」

「お医者さんの奥様が要約筆記をしてくれて、私達にはとっても心強かったわ。 先生もいい人でね。お世話になった人は多いよ。」

年配の難聴者の言葉に、まりこは大きく頷いた。 中途失聴者に対する理解は、医師といえども浸透しているとはいえないのが現実だ。 筆談を頼んでも迷惑げな顔をしたり、大きな声で話せば聞こえると思っている 医者もいるほどで、中途失聴者にとっては医者にかかること自体、ストレスになっていることすらある。

福祉会館からのんびり5分ほど歩くと閑静な住宅街に入る。その中に他の家とは少し趣の違う 建物が見えてきた。医院と住居を兼ねていたその住まいは、イギリスあたりの 田舎にでもあるような古き良き時代の西洋建築風の大きな一軒屋だった。

「うわあ。素敵なお家ですねえ。」

リオが感嘆の声を上げる。 その声が聞こえたのだろうか。重厚な木製のドアが開き、一人の女性が満面の笑みを浮かべながら現れた。

「皆さんようこそ、いらっしゃい。」

難聴者からも健聴者からも、懐かしげな歓声が上がる。

「お久しぶりです。お言葉に甘えて、みんなでお邪魔しました。」

「まあまあ、麻耶ちゃん、お久しぶりねえ。元気そうでよかったわ。頑張ってくれてるのね。」

(うわあ。あの麻耶さんを「ちゃん」づけだあ〜。)

リオはひたすら恐れ入るしかない。

「あらっ。こちらは?新しい方ね。」

「はい。八尾まりこさんと、そしてこちらが期待のルーキー、小山リオちゃんです。」

麻耶がまりことリオを引き合わせる。

「こんにちはっ。」

「はじめまして。八尾と申します。」

「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。お会いできて嬉しいわ。」

「八尾さん、リオちゃん、こちらは我らがゴッドマザー、遠山恵美子さん。 うちで一番の大ベテランさんです。」

「単に一番歳をとっているというだけですよ。お二人とも、どうぞよろしくね。」

70代だという遠山は、リオの目から見ても若々しい。 物腰も柔らかく威圧的なところは全くないのに、どこか只者ではないオーラを持っていた。 麻耶が彼女をゴッドマザーと呼んだのも、なんとなくわかるような気もする。

「さあさあ、入ってちょうだいな。リフォームしたので広くなったんだけど、まだまだ 片付いてなくてね。もっと手をいれて落ち着く空間にしたいと思っているの。」

遠山に案内された部屋は、かつては医院の待合室だったらしい。ガラス戸越しに 広い庭を見渡すことができる大きな部屋の真ん中に6人掛けのダイニングテーブルが置かれ、 部屋の四方には、それぞれ趣の違うソファセットが置かれて、まるでホテルのラウンジかロビーのように 、同じ部屋なのに独立した雰囲気の空間を生み出していた。

「好きなところに座ってね。すぐお茶を持ってくるわ。」

「あ、手伝います。」

リオとまりこが後に続く。

大きな部屋の隅に、こぢんまりとしたキッチンがついていた。医院の待合室だったことを考えれば、 これは新しく作られたものだろう。小さいながらも使いやすいように工夫されている。

「ここでね、こうしてみんなとお茶を飲みながら、楽しくお喋りするのが夢だったの。」

手話交じりの呟きを、まりことリオは穏やかな気持ちで聞いていた。

まさか恵美子のその夢に、自分たちも大きく関わるとこになろうとは思いもしなかった。




* 11 *


「青い空」のメンバーは、それぞれ好きなところに座ってお喋りに花を咲かせた。 数少ない男性メンバーも、窓から見える立派な庭を眺めながら、共通した趣味である 植木や自らの家庭菜園についての情報を交換しあっている。 日持ちする物をとサークルで用意してきた焼き菓子は 美しい菓子皿に盛られ、難聴者さん手作りの和菓子や恵美子が用意してくれていた 珍しいフルーツなどと一緒に、あっと間に平らげられていく。

「お茶のお代わりいる人は〜?」

「はーい。私、今度は紅茶がいいな。」

「自分で煎れて〜。ティーパックの種類が多すぎてわかんない〜。」

とても人様の家だとは思えないほどのメンバーのくつろぎように、新参者のリオは驚くやら呆れるやら。 それもこれもゴッドマザー恵美子の飾らない人柄があってのことなのだろう。

「あー、ここ、居心地いいな〜。帰りたくないよ〜。晩御飯の仕度なんてしたくな〜い。」

どのテーブルにも、ノートテイク用の小さなホワイトボードや筆記者愛用のバインダーが 置かれ、それぞれの会話を補っている。

「なにそれ、駄洒落?」

ノートテイクの文字を見て難聴者が笑った。

「あ、ほんとだ。駄洒落になってる〜。」

他の難聴者も文字を覗き込んで笑う。自分の書いた物を読んで、 その場で難聴者が笑ってくれるというのは、 リオたち要約筆記者にとって最も嬉しいことの一つだ。

中途失聴・難聴者は自分の声が聞こえない人も多い。自分が出す声の大きさが解らないので、 公の場所や知らない人がいる所では、不必要に大声を出してしまわないかと 話をすることもためらってしまう場合もある。だが、ここではそんな気遣いは無用だ。気心の知れた 仲間うちでは、たとえ声が大きすぎても、誰かがそっと教えてくれるので安心して話せる。

「それにしても、これだけ広いとスクリーンも余裕で2台は立てられますね。3台でもいける。」

「福祉会館が使えない時とか、ここ、使わせてもらえないかな〜。」

恵美子の家の1階は医院として使われていただけに靴脱ぎも広く、下駄箱も完備されている。 脚の悪い人でも、車椅子でも来院できるようにスロープもあるし手すりもついている。 トイレも完全バリアフリーで、家の前には軽自動車なら3台は置けるスペースもある。

「もちろん。そのつもりでリフォームしたのよ。」

さも当然のような恵美子の発言に、全員背筋を正し感謝の拍手を送る。

「実は今夜もね、ご近所の奥様たち・・・といっても私と同年代の高齢の女性ばかりがね、 フラダンスの練習に、ここを使うの。」

「フラダンス!」

思わず声を上げてしまったリオの書く字を見て、まりこも目を丸くする。

「老人会で発表するんですって。その練習。」

「うわ〜、おもしろそうですね。」

「ほら、この壁。白いからスクリーン代わりにもなるんだけど・・・」

立ち上がった恵美子が壁際で何やら操作すると、白壁は真ん中で二つに割れた。 そのうしろは一面鏡張りになっているではないか。

「すごい!!」

「スタジオ経営でもなさるんですか?」

驚嘆の声があちこちで上がる。

「これだけの広さだったら社交ダンスとかフォークダンスとか、エアロビとか できますよね。」

「ヨガなんかもいいよね。太極拳とかも。」

サークルのメンバーも目を輝かせる。

「え〜、床が痛むんじゃないかなあ。」

「騒音とか振動とかの苦情も出るかもしれないし。」

「そうねえ。とりあえず、玄関で靴を脱いでできる静かなものならOKしようかしらね。」

「着付けなんかもいいですね。」

「あ、誰か着付けの師範いたよ。えっと、森川さん、師範の免許あるって言ってたよね。」

「ええ、昔ね。失聴する前に、ちょっと教えてた。」

「あら素敵。それじゃ夏にみんなで浴衣を着て、ここで宴会しましょうか。」

「全員着付けるの、大変じゃない?」

「だったら宴会前に、『聞こえにくい人の為の一日浴衣着付け講習』をしませんか?」

「それおもしろそう。賛成!」

「でも・・・男性陣は?」

「いやいや、お構いなく。ワシらはその後の宴会準備をしますわ。浴衣姿の別嬪さんがたと 飲めるのを楽しみにしとります。その代わり、料理も頼みまっせ。」

あれよあれよという間に、ビアガーデンパーティの計画は立ち上がり、楽しい時間は あっという間に過ぎていった。




* 12 *


季節が夏に向かう中、日々の変化は少しずつ、しかし確実に現れてきた。リオ達「青い空」は 月3回の火曜日の例会の他、公的機関や個人からの派遣依頼をこなしていた。 例会のない週でも、なんとなく自然と恵美子の家にあつまり、ランチやお茶を楽しむようになっている。 それぞれが手作りの弁当を持ってきたりコンビニで買ってきたりしていたのだが、

「台所もあるのだから、どうせならできたてのものを食べたら?」

というゴッドマザーの有り難い申し出に従い、いつしか例会のない火曜日は 料理教室のような雰囲気となっていた。しかもメンバー男性陣を 中心とした自家菜園部隊がその日の朝に収穫してきた鮮度抜群の季節の野菜を持ってくるし、 米は農家のメンバーの供出、おまけに恵美子のご主人、遠山医師の釣り仲間だった近所の人が 釣りたての魚を持ってきてくれることもあった。

「大漁だと嬉しくて全部持って帰ってきてしまうのね。でも奥さんに怒られちゃうのよ。 冷蔵庫の許容範囲を超えてるって。私もさんざん主人にモンクを言ったものだわ。」

これらの魚を鮮やかにさばいてみせたのが、まりこだった。

「すっっっごぉ〜い!板前さんみたい!!!」

魚は切り身をスーパーで買うものと思っていたリオの目の前で、刺し身用、焼き魚用、煮付け用と 次から次へと切り分けていく。干物用に作った開きは、遠山医師愛用の品であったネットの中に 整然と並べられ、風通しのよい庭の軒先に吊るしてしまう。

「実家が漁師町だったからね。でも仕事が忙しくて。本当に久しぶりに、こんなにたくさんの 魚をおろしたわ。」

「八尾さん、なんでもできるんですねえ。すごいなあ。」

リオが何もできなさすぎなのだが、心優しい「青い空」の年長者たちは苦笑しながらも 温かい目でみてくれている。それはリオが、何事によらず、たとえ今はできなくても、 できるようになろうと努力することを怠らないからだ。

「けど八尾さん、小料理屋とか、できるんじゃない?」

「おっ。ええな。八尾さんの店ができたら、ワシ、毎日行くで。」

「火曜日の例会の前だけでも昼ごはん、ここで作ってもらえたらありがたいなあ。」

「おお、それもよろしいな。ここで飯食えたら、福祉会館まではすぐやし。」

「食材は提供するので、どうですか?」

まりこがリオのノートテイクを見ている間に、他の筆記者がも話に加わる。

「私たちも会館の近くに安くて美味しいお店があれば嬉しいけど。でも光熱費もかかるでしょう?」

「それにゴミも出るしねえ。恵美子ママの迷惑にならない?」

圧倒的多数を占める主婦の意見は、あくまでシビアで現実的だ。

「じゃあ、会員制・・・っていうか、会費制にするのはどうですか?」

リオの意見に皆が耳を傾ける。

「え〜っと、とりあえず、テストケースってことで。1ヶ月、火曜日限定ランチ、やってみません?」

「そうねえ。続くかどうかは別として、おもしろいかもしれない。」

「会費はどのくらいにするの?一人一食100円くらいかな?」

「それだと八尾さんへのお礼は出ないよ。光熱費ギリギリってところじゃない?」

ノートテイクを読み終わったまりこは、思わぬ成り行きに目を丸くしながら答えた。

「いえ、私もどうせ自分の食事は必要ですし。」

「でも、用事がある時とか、八尾さん一人に負担をかけるのは悪いよ。」

「だから。だからね、八尾さんはチーフということで、「青い空」の難聴者でも健聴者でも、 もちろん男性でも、時間のある人、協力してもいいよって人が、 当番を決めて作るっていうの、どうでしょう?」

全員が顔を見合わせ、そして頷いた。

「おもしろそう!」

この、ノリの良さが「青い空」の真骨頂である。

「ママ、やってみてもいいですか?」

それまで静かに皆を見守っていた恵美子が満面の笑みで応えた。

「もちろん。私に協力できることがあれば何でも言ってちょうだい。」




* 13 *


休みが近づくと嫌でもやってくるのが三者懇談だ。

「ねえリオちゃん、リオちゃんが懇談にきてくれないかな〜。」

まりこの娘、弥生がそんなことを言い出したのにはわけがある。ゴッドマザー遠山宅で開かれる夏祭りの 準備や火曜日限定ランチのおかげで、まりこはそれまで以上に青い空のメンバーと過ごす時間が増えていた。 それに伴い、弥生もサークルのメンバーに馴染みつつある。未来の要約筆記者候補として向学熱心な弥生は 高齢の難聴者から孫のように可愛がられていたし、現役で活躍する筆記者からも青い空の将来を託す人材として 期待をかけられている。

「うーん。ノートテイクの派遣、しかも一人で任せてもらえるっていうのは、残念だけど私にはまだ無理だと 思うなあ。」

要約筆記を少しかじった人の多くは、スクリーンに書いた文字が映し出されるOHPではできないが、 ノートテイクなら自分にもやれる、と思いがちだ。しかしそれは大きな間違いで、ノートテイクの方が より技量を必要とする。OHPなら聞き間違いや誤字をチームのメンバーに訂正してもらえたり、 文章の意味がきちんと伝わるように補筆してもらえたりするが、ノートテイクとなると全てを 一人でこなさなければならないからだ。

「う〜ん、そうか〜。イヤだな〜。」

リオは弥生の解いた問題に赤マルをつけていた手を止めた。

「懇談に派遣がつくのが嫌なの?」

「ううん。そうじゃない。家庭教師をしてくれているリオちゃんなら平気。だけど、他の人に、成績とか、 学校での様子とか、知られちゃうのがちょっと恥ずかしいな〜って。」

それはリオにも理解できる。弥生の学力を既に知っているリオでなくても、見ず知らずの第三者が 派遣されてくるのなら、まだ平気なのだろう。しかし、いつも親しくしている人に望まないプライベートを 知られるのは、あまり楽しいことではない。

「でも要約筆記者には守秘義務があるよ。」

「しゅひ・・・? なにそれ?」

「現場で知ったことは誰にも話さない、秘密にしますってこと。」

「へえ〜。そうか。そういう約束があるんだ。でも、やっぱり筆記者さんには知られちゃう〜。」

弥生の成績なら恥ずかしがることもなさそうだが、そう簡単に割り切れる問題でもないことはリオにもわかる。

「う〜ん、どうしよう〜。」

頭を抱えて悩む弥生にリオが言った。

「あのね、やっちゃん。恥ずかしいって気持ちをママに説明するつもりなら、きちんと、絶対にママが 誤解をしないように話さないといけないよ。」

「え?」

何を言われたのかよくわからない弥生は、思い切り首を傾げる。そんな弥生の目をじっと見ながら、 リオは慎重に言葉を選びながら続けた。

「やっちゃんの言葉が足りなかったりすると、ママは自分のせいだと・・・やっちゃんの恥ずかしいって気持ちを、 ママが要約筆記を必要としていることを、人に、友だちとかに、知られるのが恥ずかしいんだって、 そんなふうに思っちゃうかもしれないからね。」

「なにそれ?!」

弥生は本気で驚いたようだ。そんなことは思いつきもしなかったのだろう。

「ママだけじゃくて、大人はね、言葉の裏を、言葉以外の余計なことを、いろいろ考えちゃうものなの。 それで、時には子ども以上に、くよくよしちゃうこともあるの。だから・・・、ね?」

しばし呆然としていた弥生は、大きな溜息をつき、やや青ざめた顔ながらも力強く頷いた。

「わかった。気をつける。リオちゃん、教えてくれてありがとう。」

リオは立ち上がり、弥生の側に行くとそっと両腕にその幼い身体を抱きしめた。歳のわりにはとても利発で しっかりしている弥生。けれどその小さな心の中には様々な思いが入り乱れているに違いない。弥生は無言で、 しかし言葉よりも雄弁に、リオの腕に両手でしがみついてきた。 そんな弥生がリオにはいじらしくてならなかった。

しかし。

弥生はまた、リオに負けず劣らず前向きで、しかも行動力のある女の子だった。

「リオちゃん以外のサークルの人に成績を知られるのは、すっごく恥ずかしくて嫌だから。 だから、成績がバレちゃう今度の懇談には、派遣は頼まないでほしいの。その代わり・・・」

弥生は担任の先生に直談判して、弥生に関するコメントは、まりこが読んでわかるように 前もって文章にしてもらう約束をとりつけてきた。それでも足りない部分は「青い空」の特別予備軍である 弥生自身がノートテイクすると宣言し、そのせいで時間がかかって順番を待つ級友に迷惑が かかることのないよう、懇談日を最終日の最終時間に設定してもらったのだった。




* 14 *


まりこの息子・誠が通う中学校の校舎の三階。教室前の廊下に置かれたスチール製の椅子に座って面談を 待つまりこの横で、誠がひざの上にノートパソコンを広げた。数日前に夫である誠一から誠に渡された物だ。 会社の同僚が新しいパソコンに買い換えたのを譲ってもらったらしい。

今日の三者懇談には誠一が来る予定だった。誠は中学三年生。高校受験を控えている。親も子も初めての 受験である事を考えれば、面談には健聴者であり、父親である誠一に行ってもらうのが一番良いように、 まりこは思った。

派遣を申請すれば要約筆記者は来てくれるだろうが、今のまりこには要約筆記の限界も見えてきている。 ノートテイクでは話の内容は伝わっても先生の一言一句を完璧に拾い上げることはできないし、 まりこ自身も微妙なニュアンスを書かれた文章から正確に感じとれるかどうかもわからない。

それならば、自分より健聴者の夫の方がふさわしいと判断したのだ。ところが、誠一に急な海外出張が入り、 どうしても面談には間に合わなくなってしまった。

「ごめんね、ママが行くことになって。」

そう誠に告げた時は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「なんで謝るの?」

誠はまりこの目を見てゆっくり話す。妹の弥生と違って口数が少ない。 中学生になり、声変わりも始まった頃からは、母親と話すこともあまり無くなっていた。 塾やクラブが忙しく、家族より友だちと過ごす時間が増えたことも原因だろう。 だが、まりこが失聴してから、ますます誠と話す機会がなくなった。 母親の失聴に苛立ちさえ感じているような気がしてならない。

「ママが聞こえてたらよかったんだけど。」

まりこの言葉に、誠は見るからに不機嫌になり、フイと目をそらせてしまった。

「仕方ないじゃん。」

ピピ〜ッ!

悔しく情けない思いに沈みそうになったところに、鋭い笛の音が響いた。 まりこには音そのものは聞こえないが、それでも伝わってくる振動からすると、かなり大きな音のようだ。 ふりむくとホイッスルを持った弥生が兄の誠に人差し指を突きつけていた。

「お兄ちゃん、イエローカード! ぜんぜん言葉が足りてません!」

「なんだよ、それは。」

弥生はドカドカと足を踏み鳴らして誠に近づき、ちょっと意地悪そうな顔で兄を見上げた。

「リオちゃんが言ってたよ。コトバが足りないと、ママが誤解しちゃうって。」

リオの名前を聞いた瞬間、誠の顔が赤く染まった。弥生はそんな兄の変化にニヤリと笑いかけ、 おもむろにまりこを振り返った。安心させるように、ゆっくりと、手話もつけて話しかける。

「お兄ちゃんが言いたかったのはね、聞こえないのは、ママのせいじゃないんだから、 そんなこと気にしちゃダメだよ、ってことだよ。ね?」

まだ赤い顔の誠が慌てたように何度も頷く。

「ごめん。オレ、うまく喋れなくて。思ったこと、うまく言葉にできなくて、ごめん、ママ。」

考えてみれば誠はまだ中学生なのだ。しかも一番難しい年頃の男の子だ。突然の母親の失聴に、 本人と同じくらい、もしかすると、まりこ以上に戸惑い、 現実を受け入れられずに混乱しているのかもしれない。

「なんで謝るの?ママ、嬉しいよ。ママでいいのね?」

照れくさそうに、しかし誤解のしようがないくらいはっきりと、大きく頷く。

「当たり前じゃん。だって、パパが来たって仕方ないよ。・・・あ、今度の『仕方ない』は、 えっと、ママの方がずっと学校のこととか、オレの事とか、わかってるって、そういう意味だよ。」

嫌がるので実行には移さなかったが、心の中で、まりこは誠を力いっぱい抱きしめた。

「それから、派遣も頼まないでほしいんだ。やっぱり、成績知られたくないし。」

「大丈夫だよ。リオちゃんはまだ、懇談の派遣には来られないって言ってたもん。」

「・・・うるさいな。」

ますます顔を赤める兄を見て、弥生がケラケラ笑っている。

「オレ、字、書くの苦手だから、パパに頼んである。今日持って帰ってくれる。」

「お兄ちゃん、またまたイエローカード。そんな言い方だと要約できないよ。主語がオレ、述語が頼んだ。 それはいいけど、何を頼んだのかがちっともわからないよ〜。」

「いちいちうるさいなあ。パパが帰ればわかるよ。」

その、誠一に頼んで持ち帰ってもらったノートパソコンが、今、誠の膝にのっている。




* 15 *


誠の担任は数学を教えるまだ若い男性教師だった。まず、まりこは自分の聴力について説明し、 パソコンの文書ソフトを利用することを了承してもらった。中途失聴者が、聞こえない事を告げると、 たいていの人は驚く。普通に話せる人が多いからだ。

「でも喋っているじゃないですか。聞こえてるんでしょう?」

と疑わしげに聞き返されることも珍しくない。相手の未知・あるいは無知からくる素朴な質問なのだ、 悪気はないのだろうと自分に言い聞かせてみるが、無神経なその言葉は、刃のように心に突き刺さる。

しかし誠の担任は、

「それはご不自由でしょう。」

と拍子抜けするくらいあっさりと、まりこの現状を受け入れてくれた。面談では、まりこは普通に話し、 担任の発言は、誠が十分に充電してきたノートパソコンに打ち込んだ。

昨夜二人で調整した、まりこの見やすい字体の、大きな文字が画面に次々に現れる。 前もって志望校などの固有名詞は登録しておいたし、誠のブラインドタッチ (キーボードを見ずに入力すること)もスムーズで、思っていたよりずっとこの方法は有効だった。

ただ、弥生と違って誠は要約筆記に感心を持って自らも学ぼうとしているわけではないので、 聞こえてきた言葉は全部そのまま入力しないといけないと思っていたようだ。 いわゆるケバ、「え〜っと」などの意味のない発語や、急に話題が変わった時なども、 聞こえた通りに機械的に打ち込んでいく。そうするとどうしても文字数が多くなり、 画面が流れていくスピードが速くなる。まりこが読みきれないうちに文字がディスプレイから消えていく。 そのため、時々話の内容がわからなくなることもあった。

そんなまりこの様子に気づいた担任教師が、誠のノートパソコンを自分の前に引き寄せた。

「八尾君は自分の言いたい事を打って。僕もそうするから。お母さんは普通に話してください。」

それからは情報保障というよりもノートパソコンを利用した筆談形式で話が進み、誠の成績に関する話も、 こちらの質問に対する答えも、入力された画面を読むことでよく解った。 中学三年生を担当する忙しい教師が、こんな対応をしてくれるとは。まりこは嬉しい驚きで一杯になった。

「本当に有難うございました。おかげさまで、とても助かりました。」

まりこは深々と頭を下げた。

「いやあ、僕の方こそ。悪筆なので書いてくれと言われたら困りますが、タイプなら僕にもできますから。 こちらの方こそパソコンを用意してもらって助かりました。」

本当に安堵したことがありありとわかる、正直すぎる表情で頭を掻いた。まりこは苦笑する。

「書いてほしい」と頼んで躊躇われる一番の原因は、たいてい「字が汚いから」というものだ。 リオたちのように要約筆記者になろうとするならある程度は整った字が求められるが、 日常生活ではほとんどの場合、読めればいいのだ。何が言いたいのか意味がわかればいい。 そんな謙虚さはむしろ無用なのである。

「やっぱりママに来てもらってよかったよ。」

教室を出てから誠が言った。

「実はオレ、あの先生、ちょっと苦手だったんだ。」

中学校では小学校ほどクラス担任と深い交流があるわけではない。相互理解というものも、 それほど進んではいないのだろう。

「だけど、なんか・・・その、思ってたのと、イメージ違った。その・・・良かったよ。」

若き数学教師・大西哲夫が、誠が密かに憧れるリオの前に現れるのは、まだ少し先の話だ。




* 16 *


「青い空」のビアパーティ当日。遠山邸の二階、恵美子のプライベートルームでは 着付けの講習会が開かれていた。元着付け師範であった難聴者メンバーの森川が講師になり、 浴衣の着付けと帯結びの仕方をレクチャーするのを、リオを含めた比較的経験の浅い筆記者が情報保障していく。

「はい、それじゃ今のを思い出して、着てみてください。わからなくなったら手をあげてね。」

講師の森川の説明が終わると、それぞれが持ち寄った浴衣を広げ始めた。

「いやだあ〜、旅館のねまきみたいになる〜っっ。」

「うわあ、なにそのピンク色、すごいハデ〜!」

「今どきはこんなのものよ。娘のなの。外では着て歩けないけど、ここならね。」

「ちょっとちょっと。それは襟をぬきすぎじゃない?」

あちこちで交わされる会話も、いつもよりずっと華やいだ雰囲気だ。

「わあ〜、リオちゃん、きれい!」

「青い空」では、こういうお楽しみ行事には家族の参加が普通に行われる。 今夜も、筆記者や難聴者の子どもや孫がメンバーに交じっていた。

「やっちゃんこそ。それ、買ってもらったの?」

「ううん。森川さんが若い時に着てたんだって。わたしに合うようにお直ししてくれた。可愛いでしょ。」

「あ、じゃあ私とおんなじだ。私のは遠山さんのだよ。お直しはなし。」

「色っぽ〜い。」

「ふふふ。ありがとう。やっちゃんも可愛いよ。」

「若い子が落ち着いた柄を着ると、かえって若さが引き立つわねえ。」

ゴッドマザー恵美子も絞りの浴衣を端然と着こなし、満足げだ。

「私も何年ぶりですかねえ。何十年ぶりかで浴衣を着ましたよ。」

麻耶も少々照れくさそうだが嬉しそうだ。

「それじゃ、この艶姿(あですがた)を下の男性陣にご披露しにいきましょうか。」

階下の宴会場では男性陣が今や遅しと待ち構えていた。初めて「青い空」の行事に参加する、 まりこの息子の誠の姿もあった。

「おーっ、綺麗どころのお出ましやぞ〜。」

総勢20人以上の浴衣姿は、年齢層に関係なく圧倒的な迫力がある。 筆記者メンバーはいつもは黒子のような服装が多いだけに 、色とりどりの浴衣は目に眩しいほど華やかで綺麗だ。

「やっぱり女の人の浴衣姿はよろしいなあ。」

「本当に。日本人に生まれてよかった〜と思いますよ。」

以前リオ達がお茶を楽しんだ広い部屋の真ん中には3台のダイニングテーブルが置かれ、 それぞれが持ち寄った料理が並べられている。各自思い思いに皿に料理をとりわけていくバイキング形式だ。

大きな寿司桶には恵美子心づくしの散らし寿司が。その隣には皿の周囲をプチトマトで 美しく彩った弥生とまりこのポテトサラダ。夏野菜をふんだんに使った天ぷらは、 女性陣が着付けている間に男性メンバーが作った揚げたてだ。塩茹でした枝豆、カボチャの煮つけ、 焼き茄子や冷奴、冷やしトマトにとうもろこし、そうめんなどに交じってパスタやピザもある。 リオが用意したのは竹輪の穴にきゅうりや チーズ、カニかまぼこなどをつめただけの軽いつまみだったが、 これが老若男女に関わらず予想外に好評で、若い女の子としての面目をどうにか 保つことができた。

あちこちで楽しげな笑い声があがり、カメラのフラッシュがたかれている。 宴もたけなわの頃、部屋の照明が二、三度点滅した。聞こえない人がいる場合の、 何かを知らせたい時の合図一つだ。電灯のスイッチの所にいた恵美子に皆の視線が集まる。 それを待っていたように扉の向こうから現れたのは、 ハワイアン衣装に身をつつんだご近所の老婦人方だった。

「うわっ。フラダンス?」

子どもたちが歓声を上げる中を、ハワイアンのリズムに乗ってダンスが始まる。 ゆるやかな踊りと、カラフルで大きな髪飾り、美しい衣装が見る人の目を楽しませる。 何曲かめには振りを真似て踊りだす者もあらわれた。

「これなら私にもできるよ。」

「私にだって。ほらほらっ。」

「うまい、うまい!」

アルコールの力も手伝ってか、いつしか男も女も、大人も子どもも、健聴者も難聴者も、 誰もが腰を振り、手をくねらせて、陽気な一夜が過ぎて行った。




* 17 *


かつての遠山医院を開放した恵美子のサロンでは、 火曜日限定だったランチタイムが木曜日にも実施されるようになった。火曜は今までどおり 「青い空」のメンバーが中心だが、木曜のランチは浴衣パーティでフラダンスを披露した 年配の近隣主婦が担当する。平均年齢73歳。高齢だがまだまだ若さとパワーを誇るベテラン主婦チームだ。

高齢者にとって「聞こえにくい」ということは他人事ではなく、身近な問題だ。それだけに 「青い空」のメンバーと意気投合するのに時間はかからなかったし、夫に先立たれて一人暮らしの人も多い。 自由な時間はあるが、一人で食事をするのはつまらないし、一人だと手の込んだ料理をつくる気にもならない。 みんなでワイワイ言いながら作った料理を、誰かに美味しく食べてもらえるというだけでも楽しいらしい。

変化はランチだけではない。いつの間にかサロンの片隅に囲碁や将棋の道具が備え付けられていて、 サークルメンバー以外の顔もちらほら見られるようになってきていた。玄関には掲示板が掲げられ、 「○月○日○時より、手打ちうどん講習会」「囲碁対局相手求む!」といった各種のお知らせが 貼られるようになっていた。

そんなある木曜日の午後。まりこはサークルで仲良くなった数人の難聴者と恵美子のサロンで待ち合わせ、 昼食をとった。そしてそのまま、ティータイムへと流れ込んでいる。火曜日は忙しくて ゆっくりする暇がないが、フラダンスチームが担当する木曜日なら、のんびりとお喋りが楽しめる。

例会では情報保障がついて便利なことも多い。しかし筆記者ぬきで話したい時もある。 そんな時は各自が持っている携帯用ホワイトボードを駆使するのだ。

補聴器を付けている難聴者も多いが、補聴器は眼鏡やコンタクトのように、 つければすぐに役に立つというものではない。よけいな雑音なども拾ってしまうし、 体調や難聴の程度などによって聞こえ方も違ってくる。特に人の大勢いるところ、 騒がしいところでは、肝心な音や声が聞き取りにくくなる。難聴者同士が話をするなら、 できるだけ静かな場所が望ましいく、その点、恵美子のサロンは申し分ない環境だった。

「補聴器、試してる?」

娘の弥生に浴衣を譲ってくれた元着付け講師の森川が、まりこに話しかけた。

「家で少しずつ。でもまだ慣れなくて。すぐに外してしまいます。」

自身も失聴し、難聴者と関わることが多くなってきたまりこは、できるだ簡単な 言い回しで用件を伝えるようになってきた。その方が自分の意思が確実に相手に 伝わると解ったからだ。弥生からも「5W1H」を意識して話すようにと言われているが、 これがなかなか難しい。

「慣れるまで大変だよね。私も眩暈(めまい)がひどかった。」

「私はね〜、頭痛と吐き気よ〜。何度、途中で投げ出そうと思ったか。」

もう一人の難聴者の安部も同意する。少し間延びした喋り方をする、穏やかな人だ。

「そういう人も多いらしいよ。慣れる前にあきらめちゃう人。」

「でもね〜、今はもう、補聴器なしじゃ、怖くて外を歩けないわ〜。」

まりこは最近、専門店で自分用の補聴器をフィッティングしてもらった。 耳の穴にすっぽり埋め込む形式のものだが、すさまじい圧迫感があり、 とても長時間使用する気にはなれない。だが、少しでも音が聞こえるのなら、やはりつけるべきだろうか。

実は先日、庭で草むしりをしていた時に、まりこの周囲に蜂が何匹も飛んでいた。 娘の弥生が慌てたように手招きするので、そちらに向かった。蜂に気がつかなかったので、 パニックを起こすこともなくゆっくり動いたから良かったが、ヘタをすると刺されていたかもしれない。

健聴者なら聞こえるブンブンという羽音が、まりこには全く聞こえなかったのである。 蜜蜂くらいならまだいいが、これがスズメバチだったりしたら命にも関わる。

「あー、あるある。蚊の羽音もわからないよね。痒くなって初めてわかる。」

「雨の音もそうよね〜。にわか雨に気づかなくて〜、洗濯物、 ぐっしょりさせてしまったこと、何べんもあったわ〜。」

「私はベランダに屋根をつけてもらったよ。」

「電子レンヂの音とか、コーヒーメーカーの音とかも、わからないと困りますね。」

「私なんか〜、この間、素敵なキャリーバッグをね、リサイクルショップで見つけてね〜。 しっかりしているしぃ、すごく安くて、気に入ったから買って使ったんだけど・・・」

安部がその穏やかな顔を思い切り歪めた。

「転がす時にね〜、すごい音がしてたらしいのよ〜。『お母さん、何を引きずってるの!?』って、 娘に叱られちゃった〜。近所中に響いていたって〜。きっと、だから安かったのね〜。」

「うーん。そういうのって、私たちにはわからないよね〜。」




* 18 *


「今までで一番困ったのは、事故か何かで電車がとまってしまった時でした。」

読んでいた本に夢中になっていて列車の中に取り残されたのだ。 乗り換えのアナウンスも聞こえず、車掌に肩を叩かれてようやく周囲に誰もいないことに気がついた。

「そんな時のためにも、補聴器をつけておいたらどうかと息子に言われたんです。」

スイッチをオフにしていてもいい。付けていれば、聞こえないことが解る。 それに気がついたら、周りの人に援助してもらえるかもしれない。

まりこの息子、誠の言葉だ。それは恐らく正しい。でも・・・。

「そうよね〜。それはその通りなんだけどね〜。でもさあ、やっぱり・・・、補聴器がなくちゃ 怖くて歩けないっていう私でも、やっぱりねえ。やっぱり、 未だにね、こうして、髪で隠して、少しでも目立たないように、人から見えないようにしてるもの。」

「私もよ。今は目立たないタイプの物が増えたけど以前はそうじゃなかったし。それに、 補聴器を付けていると、聞こえないと解ってもらえる場合もあるけど、その逆もあるしね。」

森川の言葉に、まりこと安部も大きく頷く。

一般の人は、補聴器をつけると聞こえが戻ると思ってしまう。眼鏡をかけて視力を補うように、 聴力も簡単に補えると思われがちだ。しかし、補聴器をしている人の聞こえの状況しだいで、 たとえ「音」は認識できても「言葉」として入ってこないことも多い。

それでも補聴器をつけるのは、そこに「音」があると知ることができるからだ。それがどんな種類の音なのか わからなくても、例えば赤ん坊の泣き声なのか、何かがぶつかった音なのかは解らなくても、そこで「音」が 発生したことがわかれば、目で見て確認することができる。聞こえを補うというよりも、危険を避けるため、身を守るために装着している場合も多い。

けれど人からは、「補聴器をつけているんだから聞こえているはず」と思われてしまう。音と言葉の 違いなど、当事者でなければ考えつきもしないからだ。

「初めの頃、補聴器の耳元でものすごい大きな声で話されて、ひどい目にあったわよ。」

森川がそれを笑い話にできるまでに、いったいどのくらいの時間を必要としたのか。 想像するだけで、まりこは涙ぐみそうになる。

「それとさ、車の、バックミラーってあるじゃない。あれ、欲しいと思わない?」

「バックミラーですか?」

「後ろを確認できる鏡ってことね。なるほど、そうよねえ。」

聞こえが不自由な場合、自分の背後の気配を音で感じることは難しい。とりわけ、歩行中に 背後から近づく車や自転車、パイクの音が聞こえずにヒヤリとした経験をもつ者は多い。 最近では音の静かな車というのが主流になっていているが、それは聞こえない人にとっては 脅威の一つになっていた。

「傘みたいなものに鏡をとりつけるとか、手鏡を持って歩くとか・・・?」

「それだと手が塞がっちゃうから、帽子タイプがいいかな。そういうの、誰か作ってくれないかなぁ。」

「安部さん、デザインしてみたら?ヒット商品になったら儲かるかもよ。」

三人は声を出して笑い合った。




* 19 *


「ところで、ねえ。あれ、なんだったの?」

安部が秘密めかして二人に顔をよせてきた。

「あれって?」

「ほら、あれよ。この前の、お祭りの時。リオちゃん泣いてなかった?」

「ああ、あれね。」

「私も気になっていました。」

それは先週末に行われたボランティアフェスティバルのことだった。地元企業数社と ボランティア団体が催す秋祭りで、「青い空」は例年通りフランクフルトの屋台と 小物雑貨のバザーを行った。 主に難聴者会員がフランクフルトを焼き、要約筆記会員がそれを手伝った。バザーの商品は サークルメンバーやその家族の手作りで、携帯用ホワイトボードやブックカバー、巾着や ビーズのアクセサリー、アクリルたわし、男性メンバーの力作、木製マガジンラックなどが 並べられた。売れ行きは好調で、フランクフルトも出品作品も完売したほどだ。

それなのに、青い空のアイドルとでもいうべきリオが、青ざめて肩を震わせ、途中で 帰ってしまったのである。もちろんそれは麻耶代表の指示に従ったわけで、仕事を 放棄したわけではなかったが、いったい何があったのかと難聴者だけではなく筆記者の間でも 心配されていたことなのだ。今日、こうして三人で集まったのも、実のところリオの様子が気になった からだと言っていい。

「森川さん、何か聞いてない?」

三人の中では一番年長で、サークル在籍歴も長い森川は、まりこと安部を交互に見てから 小さな溜息をついた。

「私も麻耶さんからの又聞きで、実際に見たわけじゃないんだけどね。」

筆談まじりに説明を始めた森川の話に、まりこも安部も顔を曇らせた。




* 20 *


フェスティバル当日は快晴で、「青い空」の屋台もバザーも大盛況だった。誰が焼いても味に大きな違いがでないフランクフルトの出店は正解だ、とリオは思っていた。調理担当の難聴者が席を外す時、料理が得意ではないリオでも不安なく代理が務められるからだ。マスタードやケチャップもセルフサービスにしたので、しっかり火を通すことと、釣り銭を間違えないことだけに集中すればよかった。バザーに手作りの作品を出品することは、手芸一般も得意ではないリオにはできなかったが、その代り販売では誰よりも頑張った。笑顔を絶やさず接客し、少しでも見栄え良く、購買意欲をそそるようにとディスプレイにも気を配った。

「今年の売れ行きがいいのは看板娘が二人もいるからかもね。」

サークルの仲間にもほめられ、大いに気をよくしていた。

「リオちゃん、お疲れさま。交代するよ〜。」

2枚看板のうちの片割れ、リオよりはずっと若い弥生が母親のまりこと昼休憩から戻ってきたのは、1時を少し回ったころだった。その時まで、リオは上機嫌だったのだ。

「むこうの隅のチヂミのお店、すごくおいしいよ。絶対おすすめ!」

「おっ。それはぜひともゲットしに行かなきゃね。」

財布を確かめ、勇んでチヂミの屋台を目指して繰り出したリオの視線の先に、見慣れたサークルの難聴者の背中があった。そして、難聴者とリオの間には車椅子の男性の姿が。男性は難聴者に向かって何か言っているようだ。けれど難聴者はその声に気がついていないらしかった。出店や屋台が立ち並ぶ雑踏の中で、しかも背後の低い位置から声をかけられても解らなかったものと思われる。

リオは小走りに車椅子の男性に駆け寄り、

「どうされましたか?」

接客モードの笑顔のまま男性に声をかけた。 振り向いたのはリオと同年代の青年だった。 だが、その眼は怒りをはらんでリオを睨みつけてくる。彼が指差す先には難聴者の背中があった。

「落し物を拾ってほしいって頼んだのに!」

叩きつけるような語調だった。見れば足元に会場案内図が落ちている。リオは素早く拾い上げ、 丁寧に土を払った。難聴者はそんなリオにも気づかずに先へ進んでいく。

「はい、どうぞ。」

青年はリオの手から案内図をひったくるように奪ったかと思うと、 憎々しげに言い放った。

「何がボランティアフェスティバルだ。いい気なもんだ。自分たちは人様の役に立ってますって、宣伝したいだけなんじゃないのか。自分はいい人なんだって自己満足してるだけじゃないか。人の気持ちなんて、俺の気持ちなんて、これっぽっちもわからないくせに。」

あまりの言い草に、リオの接客モードがプチンと崩れた。

「・・・当たり前じゃないの。」

静かな、しかし強い意志を持ったリオのつぶやきを、車椅子の男は聞き逃さなかった。

「なんだって?」

リオの豹変に少し面喰いながら、それでも青年は睨み返してきた。リオも目を逸らさない。 けしてケンカっ早い方ではなく、どちらかというとのんびりしているリオだが、 この時はどうしても自分を抑えることができなかった。

「人の気持ちなんて、そう簡単に他人がわかるもんじゃないでしょ。何を甘えたこと言ってんのよ。」

いつもだったら、初対面の人にこんな態度はけしてとらない。しかも相手は車椅子を利用しており、 ここは障害を持つ人にも楽しめるようにと企画されたボランティアフェスティバルの会場なのだ。

「なんだ、おまえ。偉そうに。」

相手の言動もリオの癇に障った。空腹と、午前中の気疲れも影響していたかもしれない。

「偉そうなのはそっちでしょ。落し物を拾ってもらって礼もなし?」

「う・・・。それは、さっきの奴が・・・」

「奴だなんて言わないで!」

「なんだよ、おまえの知り合いなのか。あの無礼な奴。 おまえだって見ればわかるだろ。こっちは車椅子で、落としても自分じゃ拾えないから、 下手に出て頼んだのに。無視することないだろ。最低だ。」

青年は暗い目でリオを睨み続ける。

「なんだよ。バカにしやがって。やっぱり来るんじゃなかった。くそっ。 脚さえ元通りに動けば、あんなババアに見下されることもなかったのに。」

下を向いて吐き出される言葉は、リオにというより独り言に近い。

「おまえとかババアとか、失礼なのはそっちよ。」

しかし、今度はリオの耳が、その暴言を聞きとがめる。

「だいたいあんた、自分ばかりが被害者顔って、どういうことよ。」

「なんだよ!俺は下げたくなもい頭を下げて、それで無視されたんだぞ。 ご親切で有難いボランティアさんが大勢いるっていう、この会場でな!」

「バカじゃないの?」

「なんだと?!」

「この会場はね、あんただけのためにあるんじゃないの。ここには、あんたの声が 聞こえない人だって来ているの。あんたは想像もしなかったみたいだけどね。」

「嘘つけ! だってあいつ、声出して笑ってたぞ!」

「そうよ。喋れる。声を出せる。でも聞こえないの。そういう人もいるんだから!」




* 21 *


木曜日の昼下がり。旧遠山医院のサロンの窓際で、まりこ、森川、安部の 三人の難聴者が話しこんでいる。 食後のお茶とお菓子を前に、しばらく落ちていた沈黙を破ったのは、 三人の中で一番おっとりしている安部だった。

「だけど、それって、本音よね。」

三人とも目を合わせない。安部の視線は窓の外に、 まりこと森川もテーブルや膝の上に目を伏せた。

下げたくもない頭を下げて・・・

それはここにいる誰もが感じていることだった。助けてもらえるのは有難い。援助がなければ できないことは確かにあるし、人の助けが必要なことも分かっている。それでも。本当だったら、とか、こんな筈ではなかった、という思いはぬぐえない。

人の手を借りること、借りなければならないことに自尊心が傷つけられる。自分のことは自分でするのが当たり前、それができるのが自立した人間の条件であるように言われて育ってきた。そういう世代だ。1人でできない者の中には、怠けているとか甘えているというわけではなく、したくてもできない人、障害をもつ人が含まれることなど考えてみたこともなかった。 自分とは全く関係のない世界だったからだ。

それまで当たり前にできていたことができなくなり、障害者手帳を手にする身となった時、 これからの人生を否定されたような、まるで落伍者の印を押されてしまったような衝撃に襲われた。 バカげた考えだとは思う。なんの正当性もない、理不尽極まりない考え方だと頭では分かっている。 けれど精神的なショックはおさまらず、今でも、その思いを引きずっていないといえば嘘になる。

「リオちゃんと同じくらいの年齢か。そんなに若い男の子が、ねえ。」

難聴者の中では年配の森川の言葉に、まりこの胸は潰れそうになった。

もしも息子の誠が、 ある日突然障害をもってしまったら。自分で立つことも歩くこともできなくなって、 車椅子の生活を余儀なくされたとしたら。 想像しただけで膝が震えてくる。

「ねえ、誰だろうね、その子。」

のんびりした安部の笑顔に、深い思考の闇に沈んでいきそうになっていたまりこも顔を上げた。

「だって、今まで、そんな若い子、見たことないでしょ。」

天然なのかわざとなのか。その場を満たしていた暗い雰囲気がスッと薄れていく。

落ち込んでいたって良いことなど一つもない。そんなふうに阿部が教えてくれているような気がした。 森川も同じように感じたのだろう。顔を上げて会話に加わる。

「私たちが知っている人って、福祉会館で車椅子バスケやダンスをしている人くらいよね。 あとは、演芸大会とかで会う子どもたち。」

「この地域の人よねえ。地域の祭りに来てたんだから。」

「さあ、それはどうでしょうか。」

「車椅子になってから、まだ日が浅いんじゃない?」

「あ、そうか。だったら、知ってる人に、会いたくないよね。 車椅子に乗ってるの、見られたくないよね。」

突然の障害を受け入れられずにいる人間が、以前の自分を知っている人に出会うかもしれない 地元の催しに、そう簡単に参加する気になるとは思えない。まりこ自身がそうだった。心配する娘の弥生の強い勧めがなければ、まりこも今、こうして仲間と話していることはなかっただろう。一人で家に閉じこもり、心も閉ざして、誰にも会いたくないと思っていたに違いない。

「苦しいでしょうね・・・。」

一歩を踏み出せば、ほんの少しでも前に進む。そこに違った道ができると解ってはいる。 けれど、その一歩が、とてつもなく重いのだということを三人の誰もが知っている。 だからこそ、軽々しい気休めを口にできなかった。




* 22 *


ボランティアフェスティバルの会場を後にしたリオは、サークル代表である麻耶から指定された 地元のカフェで彼女が来るのを待っていた。 ささくれ立っていた気持ちが少し落ち着いてきた時、まるでそれを見計らったようなタイミングで 麻耶が現れ、リオの前に座った。

「すみません。昼からも店番だったのに。」

「気にしなくていいわよ。小山さんは準備からずっと頑張ってくれてたんだもの。」

ランチを注文した麻耶がウィンクをよこす。

「それに一度、小山さんとゆっくり話がしたかったしね。」

たちまちリオが少し緊張する。それをみて麻耶が笑った。

「あはは。わたし、そんなに怖いかな。まあサークルでは厳しいことも言うからね。」

「いえ、麻耶さんのおっしゃることは全部納得がいくことです。怖いなんて・・・。」

「うふふ。ありがと。小山さんは謙虚で向学心がある。 注意したことは次からちゃんと気をつけてる。だから上達するのも早い。 教え甲斐も鍛え甲斐があるから、つい、ね。」

「えっ、そんな。麻耶さんにそんなこと言ってもらえるなんて・・・嬉しいっ。」

「素直に喜びを出せるところもよろしい。難聴者のみなさんも、あなたが要約筆記をしてくれて、とても喜んでいらっしゃるわ。でもね。」

麻耶はそこで言葉を切った。 ウェイトレスが二人の前にランチプレートをおいて去っていく。

「自分のことを一番に考えていいのよ。」

はっと顔をあげたリオを、麻耶が優しい眼差しで見つめ返す。

「小山さんはうちの重要な戦力になりつつある。先輩筆記者も難聴者も、あなたに期待している。 でも、あなたの人生はあなたのものなんだから、情に流されずによく考えること。」

「麻耶さん・・・。」

目の前にいる大先輩の言葉はリオの胸に深く響いた。練習の時や派遣の後、リオの書いた 文章に的確だが厳しい指摘をする麻耶だったが、自分のことをここまで見てくれていたのだと思うと 嬉しくて有難くて、声がつまった。

サークルの誰にも言ってはいないが、リオは先行きについて悩んでいる。 就職浪人も二年目となると焦りも出てくる。 要約筆記は好きだし、続けたいと思ってはいても、それだけではほとんど収入にはならない。 今は家の近くの宅配会社で事務のアルバイトをしているが、これは平日の例会や土日の派遣など、 不定期に休みがとれるからで、収入はけして高くない。弥生の家庭教師料と合わせても、就職している友人の月収にはほど遠い現状だ。

自宅住まいだからなんとかやっていけているが、こんなことでいいのだろうかという 漠然とした不安がある。実は昨夜も、母親とそのことで口論したぱかりだった。

「さっきのアレ、ちょっとそういうイライラも出てたんじゃないの?」

麻耶が悪戯っぽく笑う。

「たしかに、ちょっと八つ当たりもあったかもしれません。」

「修行が足りない、と言いたいところだけど。わたしたちだって最初は色々あったのよ。 今はお互い気心も知れるようになって、言いたいことを言っても言われても、相手の性格とか 解ってるから受け流したり言い返したりできるけどね。」

「えっ、そうだったんですか。」

リオは驚いた。サークルのみんなは、難聴者、筆記者に関係なく、 以前からずっと仲良くやってきているとばかり思っていたのだ。

「人間だもの。いろいろあるわよ。難聴者も健聴者も関係ない。」

麻耶はクリームコロッケにフォークを突き刺した。




* 23 *


夕食後の洗い物を済ませたリオは、自室のベッドの上で大の字になった。

「ふう。」

思わず盛大な溜息が出る。いろんなことがあった、と今日一日を振り返る。早朝から「青い空」 のボランティアフェスティバル出店準備があり、接客に追われた。やっと昼の休憩に入ったところで 見ず知らずの車椅子男性と口論するハメになり、サークル代表の麻耶とランチをとった。その時、 聞かせてもらった話を思い出す。

今は和気藹々としているリオたちのサークル「青い空」も、設立当初はトラブルが多発していたとは 意外だった。難聴者も健聴者も良い意味の大人であり、少々クセはあっても、基本的には穏やかな 人ばかりだと思っていたからだ。

「でもまあ、考えてみれば当然か。」

それまで全く接点のなかった人間どうしが集まってサークルを立ち上げたのだ。お互いを 深く理解する時間などなかっただろう。難聴者も筆記者も距離の取り方がわからなかった。

障害団体が主催する演芸大会でスクリーンに映し出すカラオケの歌詞を、例会の時間に 書いていた時のことだ。筆記者は大量の前ロールを作成するのに必死だったが、 その時例会に参加していた難聴者には何もすることがなかった。 手持無沙汰に見えたので気を遣い、「先に帰ってもらってもいいですよ。」と伝えたら 、その日以降サークルに出てこなくなってしまった。気を遣ったつもりの言葉が、受け取る方は「邪魔にされた」と感じて傷ついてしまったのだ。

突然何も言わずに例会に出てこなくなったその難聴者を心配して、 遠山医師の奥さんであり当時の代表だったゴッドマザー・遠山恵美子が連絡をとり、 ようやく誤解をとくことができたのだそうだ。

難聴者の中には筆記者と介護者を混同していて、ヘルパーさんかお手伝いさんのように、 頼めばなんでもやってもらえると思っていた人もいたそうだ。 今では笑い話となっているが、そういう誤解や気持ちの行き違いを重ねてきたからこそ、 今のサークルがあるのだろう。

「障害のある人と接するのは、難しいものはあるわね。だって結局、その人の障害を100%理解するなんてことは誰にもできないんだもの。」

障害をもつ人と介助者の間には、いろんなトラブルがあることも麻耶から聞いた。 麻耶の知人は視覚障害関係のボランティアをしていた。しかし、ある男性の手引きを頼まれた時、 「服装を知りたい」と言われて身体を触られたことがショックで、そのボランティアをやめてしまった。目の不自由な人が触覚で様々な物を確かめるということは解っていても、頭で理解することと 実際に触れられた感覚とに折り合いがつけられなかったのだ。

もう一人の友人は音読ボランティアをしていた。市の広報などをテープに吹き込んだりする仕事だ。 テープは福祉会館の録音室で作成され、協会を通して利用者に配布される。ところが、利用者の一人が友人の自宅まで訪ねてきた。近くだったのでお礼がてらに遊びに来たと言われた。困惑したが、目の不自由な人を門の外に立たせておくわけにもいかず自宅に招き入れた。その人も男性だったので、日中とはいえ他に家人のいない自宅に安易に通してしまったことが、後になって怖くなった。自宅を知っていたことも気味が悪かったが、障害のある人に「もう来ないでください。」とは言いにくい。結局、その友人は自分のサークルに相談し、視覚障害団体に報告してもらったが、とても後味が悪かったという。

どちらの場合も悪意があったわけではないかもしれない。でも、自分だったらやっぱり嫌だと思うし、 怖いと思う。そんなボランティアなら続けたくないと思うかもしれない。

「人間、いろんな人がいるわよ。悪い人ばかりじゃないけど、良い人ばかりでもない。それは健常者…この言葉、わたし、嫌いなんだけどね、健常者も障害のある人も関係ない。障害をもつ人が全員清らかな心をもっているわけでもないし、かといって福祉に関わる人が全員清廉潔白な善人であるわけでもない。」

何年か前にあった、手話ができるのを良いことに聴覚に障害のある人に近づき、信用させた上で 詐欺を働いて大金を巻き上げていた女の事件を思い出す。

「そんなわけで、自分を守るのは自分しかいないからね。 遠慮なく、自分のことを一番に考えていいのよ。」

そう言った後で麻耶は、悪戯っぽく笑った。

「とか言いながら、こんなものを薦めたりするんだけどね。」

麻耶がテープルの上に置いたのは、県主催のパソコン要約筆記講座のチラシだった。

「これからは要約筆記もパソコンが主流になってくると思う。小山さんは若いし、操作にも慣れているでしょ。時間の自由がある今のうちに、どうかと思って。」

リオはそのチラシをしげしげと眺めた。実はパソコン要約筆記には前から興味を持っていたのだが、 残念ながら市では講座は開かれていなかった。

「結構ハードなスケジュールなんだけど、小山さんが受講するならサークルは全面バックアップするわよ。将来うちの市でパソコン要約筆記ができる人がいてくれると心強いし。それに、手書きの基礎を じっくり学んだ小山さんなら、きっと質の高いパソコン要約筆記ができるようになると思う。」

リオが見ても、就職して慣れない仕事をしながら履修するのは厳しいと思える内容だった。 でも、麻耶の言うとおり、今ならできる。

リオはベッドから身を起こした。愛用のノートパソコンを立ち上げる。講座受講の申し込みは メールでも受け付けていた。

小山さんならできると思う。

麻耶の一言が、リオには何より嬉しかった。




* つづく *